3/21(日) 台湾総銃撃事件とCD盗難事件今朝の新聞で、台湾総統選挙の結果が出たという記事。
一昨日、選挙中の前総統、陳水扁氏と、前副総統、呂秀蓮が選挙活動中に銃撃された。
しかし今回、このお二人が再選されたということだ。
私は、台湾の政治について正直今まで興味が無く、知識も皆無だったが、今回のことはさすがにインパクトのある出来事だった。
そして、今日の朝日新聞「天声人語」を読んで、台湾という日本ととても近い国で、民主化をめぐって私の知らない紆余曲折と痛みがあることを今さらながら知った。
再選された陳水扁総統の妻淑珍さんも、以前政治テロと思われるひき逃げにあっている。
その時の後遺症で下半身不随の車いす生活になってしまった妻に、陳水扁氏は「自分の政治活動の犠牲になった」と考え、そのことを詫びたところ彼女はこう言ったという。
「台湾で民主化運動に参加したなら、夫婦のうちどちらかが犠牲になる必要があり、自分は喜んで身代わりになる。」
そして陳氏は後にこう記している。
「この一切の苦痛、政治犯の代価は我々で終わりにしなければならない」
「私が求めるのは、おびえる必要が無く、喜びと希望に溢れる社会なのだ」
と。
人間は、何でこんなに同じようなことばかり繰り返しているのだろう。
暴力で人の希望をねじ曲げ、夢を絶つ。
それに屈せずに立ち上がる人の、その強い意志をも、さらに暴力でくじこうとする。
以前ここに書いた犬飼元首相の話も同じだった。
首相の最後の言葉は「話を聞こう」だった。
なのに、青年将校の最後の言葉は「問答無用」だったという話だ。
その話をされた時の犬飼道子さんの言葉。
「『問答無用』の世の中じゃだめだ、と思いました。」
それに続く、彼女が救援活動で出会った、レイプ被害にあった女性の話。
その女性の言葉は、
「私が憎しみの連鎖を止める」
だった。
それらすべてが、天声人語の陳水扁総統の話と繋がった。
自分に向かってくる理不尽な暴力というベクトル。
その向きを再び向かってきた方向に変えて、暴力で返す。
これが復讐だ。
その向きを手当たり次第、向けやすい所に向かって返せば、弱いものいじめだ。
それらのやり方は、憎しみの連鎖を生み、戦いを繰り返させ、果ては無関係な人々の多くの命まで奪うことになる。
ならば、と強い意志を持って、自分の中でそのベクトルの質を変えてしまう人々がいる。
有名無名にかかわらず、彼らは暴力というベクトルのエネルギーの強さだけを残して、愛という名前のベクトルに変換し、それを外に向けて再び送り出す。
この作業がどれほど尊いことか。
そしてこの作業にどれほど強い意志が必要か、それは意志薄弱な私の想像を絶する。
けれど現実にそういう人が存在する以上、それが不可能な事じゃないことだけは確かだ。
CD盗難事件での自分自身を反省しつつ、こんな事を考えた。
悪意で受けた傷を癒すのは、善意だ。
それがどの方向から来たものであれ、私はそれで危機を脱出する。
その善意のベクトルは、私から、また次の誰かに向けて。
さらに長い、力強いベクトルにして送り出すことが出来ればと思う。
悪意のベクトルを受け止めて善意に変換してくださった方々に感謝を込めて。
(反省してます(^^ゞ・・・ハイ)
私は、とても臆病なので、幻想の防波堤を作りました。
波が来たら、いつでも逃げ込めるように。
けれどそれは、実体のないもの。幻想。
だから、本当は役に立たない。
結局私は、高い波が来るたびに、全身ずぶ濡れになりました。
けれど幻想の防波堤に隠れていた私は、自分が濡れているとは知りませんでした。
なぜなら、私の感覚自体が幻想だから。
麻痺した感覚では、濡れていることに気づきませんでした。
寒さもあまり感じませんでした。
ある時、それに気づいた私は、急に震え出しました。
リアルな感覚をとりもどしはじめたから。
そして幻想の防波堤を取り壊し始めました。
綺麗さっぱり、跡形もなく壊してしまおうと思いました。
どうせ幻想なのだから。
何も隔てることが無くなった今、私の目の前には美しい海が広がり、
その景観を損なうような防波堤はありません。
けれど、時折ざっぷんざっぷんと押し寄せる大波に、その度に巻き込まれてもがいています。
身体はびしょびしょに濡れて、寒くてたまらないときがあります。
震えてうずくまり、動けないときがあります。
もしもまた、次の大波が来たら、私はどこへ逃げよう。
もしもまた、ずぶ濡れになってしまったら、どうやって体をあたためよう。
そうだ、まず
「寒い」と、叫んでみよう。
その後は、それからまた考えよう。
こんなに長いスランプは、2、3年ぶりぐらいかもしれない。
・・・と、気づいて、どうしたんだろうと思いながらお皿を洗っていて解ったこと。
今、私はやっと色々な問題を解決して、心配事のない生活が実現したところ。
旦那さんとの生活は何の問題もなく、支払うべきものを払い終わり経済的にも少し落ち着き、そして何よりも娘と少しずつ以前のように接することが出来るようになったのが、何よりも大きな幸せです。
その一番つらかったことがとうとう解決して、本当の安らかな生活を手に入れました。
やっぱりそう、やっぱりそれが原因なんです。
さあ、どうしよう。
ここからが、私の次のステップの始まりだと、たった今そう思いました。
私はうまく進めるでしょうか。
幸せにしがみつかないで、ゆっくりと味わえるように、なれるでしょうか。
ほんの些細な、否定的な言葉や態度に、怯えてすくんでしまうことなく、自分を肯定できるでしょうか。
あらゆる悪意に侵入されない、しなやかで強い心を維持できるでしょうか。
それらを実現することを自分に許すことができるでしょうか。
きっとできます。
私が心から望めば。
きっとそうなります。
これを読んでくれた、私とよく似たあなたも、きっとなれます。
どんなに感情をもてあましていようと、歯止めをかけることなく、気の済むだけ相手にぶつけて楽になるなんてこと。
どんなに感情をもてあましていようと、何一つ考えずに、垂れ流して平気でいられるなんてこと。
私はそんなことはしない。
私はそんなことは出来ない。
それが、あなたと私の決定的な違いですから。
私はあなたじゃありませんから。
絶対にあなたとは違いますから。
あなたのようにならないためなら、強い流れに逆らってへとへとになったって、
あなたのようにならないで済むなら、その方がずっとマシですから。
・・・と、そうやって怒ろうとしても、
うまく怒れない。
放った怒りの一部は、向きを変えて自分に突き刺さってくる。
残りの怒りのほとんどは、姿を変えて泥のように心の底に沈んでいく。
ああ、懐かしいかも、この感じ。
以前は毎日毎日、それどころか一日に何度も、こんな事があったじゃない。
よくやってこられたね、小さな私。
凄いね、凄いよ。
怒れなくなっちゃったくらいで済んだんだもの。
頑張ったよ。
凄いよ。
2/21(土) 今度は
些細なストレスに弱い自分、を自覚せざるを得ない、今回のスランプ。
こんな時、周りの人たちがみな、落ち着いていて、自信に満ち、
能力があって、人格者で・・・と、そんな風に見える。
多分、年齢よりも20年くらいは遅れている私の社会性が、
余計に憂鬱の原因を生み出している。
不愉快な出来事を流せない。
一度躓くと、立ち直れず、次々と躓き続ける。
けれどひとつだけ、憂鬱である時には、あのことを忘れていられる。
それは、
今度はいつ不幸になるかという不安。
そんな自分が、また憂鬱の種になる。
2/10(火) 憎しみ
昨日、とても嫌な夢を見ました。
Dark Side of Maru の"母との戦い"の頃の夢です。
私は泣きながら母を捜していました。
もう、無かったことにするのはごめんだと決心したのです。
私は母を捜し出し、その人の前に連れて行き、そこで今起きたことを話しました。
そして、今ここで私に謝れとその人に言ったのです。
母は、その話に聞こえないふりをしました。
私は苛立って同じ話を何度も繰り返します。
次第に大きな声になって、泣き声になってしまうのだけど、母はそんな私を蔑んだような目で見ます。
その目の中に私は「憎しみ」の欠片を見つけてしまいました。
もう駄目だ、もう嫌だと、やりきれない気持ちになります。
それは、何度も経験した感情でした。
何でこんな夢を見たのか、多分昨日母と電話で話したせいです。
最初、実家に戻ってきている娘が、電話に出ました。
パソコンの調子が良くないらしく、その対処方法や試験のことやこれからの予定など、長いこと話をしていました。
私のそばには旦那さんがいて、時々横でパソコンに関するアドバイスをしてくれますが、彼もあまり良くわからないようでした。
娘と話をしている間、途中3回母に替わりました。
そのたびに、今娘と何を話しているか説明しなければならず、そのたびに母の言葉に少しずつ傷つきました。
その事は今日気づいたのです。
今日、歩きながら考えていて気づいたのです。
私は、母の言葉に傷ついていたのだということに。
母の言葉に傷つくのは、私の性格がひねくれているからだと思おうとするもう一人の自分に。
母が何で私の心をかき乱すようなことを言うのか解りません。
無神経なだけかもしれない。
けれど、どうしても私は、母の言葉の中に悪意や憎悪を見つけてしまうのです。
そして、片っ端からそれを否定していくのもまた私なのです。
そんなはずはない。
私の感じ方がひねくれているからだと。
そして、私は混乱してしまい、電話切った後も、普通の状態に戻れなかったようです。
気づいたのは、旦那さんが
「どうしたの。パニクらないで。」
と言ったからでした。
確かに私は異常なテンションでした。
娘と話している時から、もうすでにパニックでした。
なのに、その時私は言ったのです。
「だって、みやびがパニクっていたから。」
・・・・・違うのです。
彼女は落ち着いていました。
次に私は旦那さんに言いました。
「なんで、パソコンのこと話しているのに、電話に出てくれなかったの。なんでそんなに意地悪なの。」
これには旦那さんが絶句しました。
「出てくれなんて一言も言わなかったよね。」
そうです。
確かに言わなかった。
けど、何故か旦那さんが意地悪く思えてくるのです。
会話が途絶えました。
なんだか解らず、一人でこっそり泣きました。
何で泣くのかわからないまま。
しばらくして、旦那さんが
「一人で背負うのはやめようよ。自分だけで何とかしようとするのはやめよう。」
そういえば、そうかもしれない。
出来もしないのに、全部背負ってしまう悪い癖。
挙げ句に何で私一人が・・・と周りにあたりだす始末。
「いつもここにいるから。一緒背負おう。みやびちゃんのことも、一緒に考えよう。」
そしてやっと、パニックがおさまりました。
昨夜そんなことがあったのです。
なぜ母が私を憎むのか解りません。
長い年月、争いばかり繰り返してきたからかもしれません。
それには私なりの理由があったからだけど、母にはそれが解らない。
だから私を、憎んでいるのかもしれない。
それとも私の頭がおかしいのかもしれない。
どっちにしても、私はこの憎しみを、ここで止めます。
旦那さんの助けを借りながら。
昨年の大晦日の夜、主人の実家でテレビを見ていました。
たまたまチャンネルを合わせていたNHKで、新春対談「心に灯をともす」という番組が始まりました。
養老孟司さんと犬飼道子さんの対談でした。
その時はビデオの用意もなく、犬飼さんはなんとなく気になる人だったのですが今ほどではなく、最近になって再放送を見たいな〜とずっと思っているのです。
その対談で犬飼さんの話されたことは、私にとって大切なことばかりでした。
私は、本当に記憶力が無いので、大切なことがちゃんと覚えていられなくて悔しいです。
けれど、もっと忘れてしまう前に、ここにおぼろげな記憶をまとめておこうと思います。
もしかしたら少しだけ、私の思い込みとか記憶違いとかでニュアンスが変わってしまうかもしれないけど。
キリスト教徒でもあり、聖書に関する本をたくさん書かれている犬飼道子さんは、五・一五事件で暗殺された犬飼毅元首相の娘さんです。
そして、東ティモールやカンボジアで子供たちを助ける活動をしてきた方です。
対談の中で、内乱の起きている地での少年や少女達との出会いを話されていました。
幼くして戦士に仕立て上げられる少年。
暴力と恐怖を体験することによって戦闘マシンとなっていく少年達。
幼くして男の人たちの相手をせざるを得ない少女。
その挙句のエイズ感染。
そういう子供達を救うことはとても難しいと。
子供一人に、一人の大人が寄り添い、やっと叶うかもしれないほどのことだと。
子供達の、焦点の合わない、泳いでいる目線。
本当に本当にまれに、そのうつろな目と自分の目が合うことがあったら、その時だけ、その子を救える小さな可能性が見いだせるという。
けれどそれは滅多にない。
彼らの泳いでいる目線を捕まえることは、まごころを持ってしても出来ないのだろうか。
ただ抱きしめ、撫でてあげることしか出来ない。
その無力感。
けれど、救われたのはレイプされた女性が、言った言葉。
「私が憎しみの連鎖を止める」
彼女は、それを誇りにして、光輝いた。
暴力の連鎖を止める。
そして光り輝く。
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それから、父である故犬養首相の暗殺についても話されました。
実行犯の青年将校達が乱入したとき、首相は
「話を聞こう」
と、そう言ったのだそうです。
それを2回か3回繰り返したのだそうです。
それに対する答えは、
「問答無用」
そして拳銃を発射。
その話の最後に犬飼道子さんは言いました。
「『問答無用』の世の中じゃだめだ、と思いました。」
この番組を見てから今日まで、色んな事を考えました。
日本では、PTSDという言葉がもう一般的になっています。
じゃ、戦乱の地ではどうなんだろう。酷いPTSDの発症があって当たり前の状況なのに。
親が、子供が、兄弟が目の前で辱められ殺されるのを目にした人々が、まさにその場所で生活している。
以前池田小学校の建て直しについても触れましたが、戦地ではもちろん、そんなこと言っていられないのが現状でしょう。
苦しいと感じたり、悲しんだり、不安になったり。
それは、私に余裕があるからなんだ。
走って走って、走り続けて、疲れ切って休みたくても、たとえば、恐ろしい何かに後ろから追い立てられていたら、止まることは出来ない。
立ち止まって、ああ、苦しいと感じることが出来るのは、私はもう走れないかもしれないと不安を感じることが出来るのは、少し余裕が出来たから。
もしも、何かに追われていたら、走って走って、ある日ばったり倒れるしかない。
じゃなければ、誰かにその追われる恐怖を押しつけてしまうしかない。
ああ、それが連鎖・・・・・・?
苦し紛れに、誰かにしがみついて自分の不安に巻き込む。
自分の恐怖に巻き込む。
無我夢中で。
必死で。
他にどうすることも出来なくて。
それが連鎖なのだとしたら。
そして、殺し合いも、戦いも、みんな連鎖なんだとしたら。
それを止めるってなんて力強いことだろう。
それができたら・・・・。
それが難しければ難しいほど、きっと、出来た時には、まぶしいくらいに光り輝くんだ!!
って、思ったんです。
1/29 おばあちゃん、そして3人の妻達
娘の所に、インフルエンザの看病に行ったとき、おばあちゃんの話をしました。
彼女はおばあちゃんの話をする時、優しい顔をします。
あ〜、好きなんだなぁ、よかったな。
そう思います。
私にとって、最悪の相性の母も、娘にとっては、かわいくて優しいおばあちゃん。
それはそれで、良かったなとほっとします。
人を憎むことは、なにより自分にとって一番つらいことです。
けれど、憎み続けないと、許してしまうと、なんだか悔しいように感じることもある。
だから、「一生許さない」なんて言葉を吐いてしまうことがある。
それは、「私は一生幸せになることを放棄する」と、宣言していることなのに。
さっさと許して、目の前にある綺麗なものに目を向けよう。
憎しみにとらわれていると、そういうものすべてを見逃してしまうから。
と、そんなことを言ったのはエリザベス・キューブラーロスです。
娘の顔を見ていたら、そんな言葉をまた思い出しました。
娘には他にもおばあちゃんがいます。
元姑もそうですが、私の父の妻達がそうです。
仮にAさん、Bさん、Cさんとしましょう。
3人のうち、Bさんはもう亡くなってしまいましたが、AさんとCさんは今母と隣り合わせの家で暮らしています。
母と一緒に買い物に行ったり、旅行に行ったり。
娘が帰ってくると、美味しいものを作って持ってきてくれたり、お年玉をくれたり。
私も子供の頃はずっとお年玉をもらっていました。
誕生日にも、入学、卒業、のお祝いなんかも。
ずっと以前から毎年の母の日には、私もカーネーションを欠かしません。
心ばかりの感謝の気持ちです。
亡くなってしまったBさんは、小さい時に一番よく遊んでもらった人です。
一番の思い出は、よく一緒に折り紙を折ったこと。
折った作品は、得意げにみんなにプレゼントしました。
今回娘の所で、手持ち無沙汰に新聞広告で折り紙をしていて、そのことを思い出しました。
お財布を折った時に、
「ここには、ティッシュを入れてね、ここには、ハンカチを入れてね。大事につかってね。」
と、念を押しながら渡したことを娘に話すと
「そりゃ、迷惑ですね〜」
と、笑いながら憎まれ口をききます。
私も笑いながら、懐かしくてたまらなくなりました。
Aさん、Cさんとの思い出も、そのうちここに書きますね。
1/12 ひとまず、おしまいです
今日は、娘の成人式です。
この記念すべき嬉しい日に、私のストーリーを、おしまいにします。
このつづきは、ご存知の通り、情緒不安定な私の未熟な日記にある通りです。
娘のくれた 「卒業証書」を、このストーリーの最後の締めくくりにすることにしました。
これからも、こんなふうに少しずつ編集作業をしたり書き直したりしようと思います。
そして、思い出したことを書き加えて間に挟んでいこうと思います。
それから、おりにふれてこの雑記のページには色んな事を書いて行きたいと思います。
私の気持ちの整理であったり、記録であったり・・・。
ここまで、私につきあって読み進んでくださった方、本当に有り難う。
どんなに励みになり、勇気づけられたことでしょう。
今日も明日も、これからもずっと、私のストーリーは続いていきます。
ここから先は、このサイトとともに。
おしまい
(ここが雑記のはじまりです)