10.母を越える



 平凡な生活が続き、やはり私は産まれ育ったあの家とは、とことん相性が良くなかったんだ…と再認識した。
母と会うときも、もうあからさまな敵意は無くなっていたし、諦めも以前のように怒りを伴ったものではなくなりつつあった。
ただ時々、母と口論になったときには、いつでも酷い言い争いになり、そのたびにかつての感覚が呼び覚まされることになった。
そのたびにあの、何度も何度も叩いた厚い扉の存在を感じた時代・・・中学の頃の感覚がリアルによみがえってくるのだ。
ただ、少しずつ少しずつ諦めることで、距離感を上手く保っているうちは穏やかな心でいられるようになっていた。

 一度だけ、母に心を開いてみようとしたことがある。

 今ならば少しは母と通じ合えるのかもしれない…と、あの男の話を母にしてみようと、ふと思ったのだ。
きっと私も冷静に話せるし、何か一言でも母の共感の言葉が聞けたら、私の胸の中はどれだけ楽になるだろう…とそんなふうに思った。

 母は私の話を聞きながら泣いていた。
私は、そのことに悲しみを感じることはなかったが、母の涙を見たら、何かが溶けていくようで嬉しくて涙がこぼれた。
そう思った直後、私は耳を疑うような母の言葉を聞いた。

「お願いだから、もうこれ以上私を困らせないでよ。」

かつての、叫んでも叫んでもこの人に言葉が届かなかった悲しさが、今またフラッシュバックして、気が遠くなった。
太い杭が治りかけていた胸の傷跡めがけて打ち込まれたような気がした。

私はどこまでも、母が丸く収めた虚構の家庭に災いをもたらす危険な存在でしかないのだ。
今となっては、母とあの男の家族とで成る平和な家庭を私が脅かしてはならないのだ。
例えそれが、彼女の娘にとってどんな大きな意味があろうと。

母の涙はいつも自分自身のためだという事を、かつてあれほど思い知ってきたのに。
何のために私は幾度も傷ついてきたんだろう。
何のために幾度も諦めてきたんだろう。
愚かにも、母に気を許した自分に、一瞬でも解ってもらおうなんて思った自分に腹が立った。

 私は一度開いた自分の心を急いで閉じて鍵をかけ、もう一度封印しなおした。

自分自身の心の平和のために。





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