13.決意


 電話を切った直後から、彼は言葉を話す事が出来なくなっていた。
心因性失声・・・心理的機制で声がかすれたり、どもったりし、ついに発語ができなくなる。
彼がそのような状況下にあることを、その時私はまだ知らなかった。

「私があなたや自分を破壊しそうになったら、その時は私を止めて欲しい」
あの約束通り、彼は確かに止めた。何度も言葉を尽くして。

「そして、どうしても私を止めることが出来なかったら、私のそばから離れていいから」
彼は離れなかった、逃げなかった、最後まで。
なのに、私は振りきって振りきって、逃げた。

「きっとそうなった時は、どんな言葉ももう届かなくなるだろう。けれど、今ここで話したことだけは絶対に思い出して欲しい」
あれほと゜繰り返した約束を、私は思い出せなかった。
けど、彼は体を張って守ってくれた。
約束も。
私のことも。

けれどその時私は、自分のことで精一杯だった。
その頃の記憶はとても曖昧で、あるのは断片的なものばかり。
私は何をしていたのか、仕事はどうしていたのか、家のことはどうしていたのか、思い出せない。
その頃考えたことも、起きたことも、順序がどうなっているのかわからない。

 電話の翌日、夕方になって私は、いたたまれずに家の外へ出た。
その時の記憶はそこから始まっている。
部屋にいるとどうかなってしまいそうで家を飛び出した、あてもなく歩き始めた。
ただ歩いていると、体が温まって血液が巡るような気がした。
すると、どこかに固まっていた感情が血とともに流れ出し始めた。
それは身体全体に行き渡り、私は耐えきれず、道の真ん中にうずくまりそうになった。
歩けなくなってしまう・・・・、急いで家の方向へ引き返した。
何故なのか解らないけど、歩くのが恐くなった。

 夜中にパニック発作に襲われた時、「もう誰にも頼れない」と思った。
暗闇に引きずり込まれる気がした。

 夢を見た。
お風呂でシャワーを浴びながら、だんだん意識が遠のいていく。
死ぬんだな、と思った。
バスタブの中には彼がいて、私の手を握っている。
私は、死んでも彼の名前を覚えていられるように、彼の名前を何度も繰り返し呼んだ。
どんどん遠のく意識の中で何度も何度も呼んでいる。
そして、ふっと意識が無くなった瞬間、私の声も消えた。
その時、夢から覚めた。

 彼からメールが来た、「声が出ない」と書かれていた。
それから病院に行ったこと、少しずつ話せるようになったことが解ったけれど、それはいったい何日間にわたって起きたことなのか。
  
 娘にすべてを話した。
彼女は意外にも冷静だった。
ほっとして、私は話し続けてしまった。
翌日も、彼女はまるで何事も聞かなかったかのようにいつもと変わらないままだった。
その後どれくらいたったのだろう、その翌日なのか数日後なのか思い出せない。
娘はいきなり壊れたようになった。
その姿を正視する苦痛から逃げない、ということ以外に私に出来ることはなかった。


 私は決意した。

私は彼を選ぶ。
そして、娘も手放さない。

私の大切なもの、どちらも手放せない。

けど、他には何もいらない。
何もかも捨てるから、神様、この二つの宝物だけを私に残してください。





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