2005-1


3/26 躓く人々

 
つらい事をしているとき、殺伐とした環境に身を置かなければならないとき、人々は不必要な思考を停止しているのだろうか。
この技を自然と身につけていくことが、社会に適応していくということ、つまり大人になっていくことの一つの方法論なんだろうか。
私はこれが出来ないから、人様が出来ていることでも、ことごとく躓いてしまうんだろうか。

躓く人々は、心を閉ざしているようでいてその実、痛みを感じやすい柔らかい部分を無防備にさらけ出しているのかもしれない。
強い人々は、心を開いているようでいて、しまっておくべきものは、きちんと丈夫な楯でブロックしているのかもしれない。

後者であろうとしながら、そうあることに疑問を感じ割り切れない時もある。
でも今の私は、もう何でも良いからどうでもいいから、とにかく何も感じずにいたいと切実に思う。
こうありたいと思って来た理想すら、捨てるべきかもしれないと思っている。

だって、当たり前のことすら出来ずに、かっこつけて理想を語って何になるんだ?


3/21 ワカッテルノカ

 「私たちがおまえのためにどれだけ泣いてきたか解ってるのか。」
と言いながら、お父さんとお母さんが、高校生の息子ともみ合っていました。
夕方のニュース番組の一場面。
息子の家庭内暴力、非行に悩んだ両親が、意を決して子どもと向き合う決心をしたのです。

お父さんの頬を拳で殴る息子。
今日こそ話し合おうと息子を押さえつける両親。
それでも逃げようともがく息子。

オマエノタメニ
ドレダケナイテキタカ
ワカッテルノカ

お父さんが叫びます。

なんだか胸が苦しくなった。
涙があふれてきた。

ワカッテルノカ

オマエノタメニ


…その前に
「おまえのことが解りたい」

ひとこと言ってあげてよ。

その後彼は、理解をしてくれる第三者の介入で両親と話し合いました。
うるせえ、とか、ふざけんな、とかじゃなくて、
ちゃんとした言葉で初めて自分のことを語り始めた彼の目から
涙があふれ続けました。

がんばれ…と、心の中で応援しました。








3/16 解ってもらえない

「解ってもらえない」という焦りが
いつもまとわりついていた
理解してもらうことに飢えていて
強迫観念に煽られるようにして
叫んでいた
かと思うと
自分のことを全く話さなかった
重い口を開いても
「本当のこと」の周囲にある
「少しだけ本当のこと」を喋るようにした

どちらにしても飢えていた

そのうち気づいた
私のことを完璧に理解してくれるのは
神しかない

それからたくさん遠回りをして
やっと自分の心の中にいる神を探そうと思うようになった
大切な人の心も解ってあげなきゃ…ということに
ようやく気づいた





3/7 狂気

それにしても、あんなに狂った場所に
よく20年以上もいたものだなぁ。
実家に行くと最近しみじみと思う。

価値観が狂ってる。
ものの決め方が狂ってる。
優先順位が甚だしく狂ってる。
直面した問題の解決方法が、とんでもなく狂ってる。
片っ端から穴を掘って埋めても、ダメだよ。
今、とりあえず目の前から見えなくなっただけじゃない。

私は、埋めさせられたものを、
その何倍もの歳月をかけて掘り返して片づけたよ。
半分狂った自分の頭で、必死に考えて処理したよ。
自分がそうしたかったからだけど。
そうしないと、やって来られなかったからだけどね。

あなた方の立ってる場所は、
埋められて腐った汚物で盛り上がってるよ。
だから、足下が不安定なんだよ。
教えてあげないけど。
だって人のシアワセなんて、測れないじゃない。
これからも、そこでそうしているのが、シアワセみたいだものね。

黙ってみているのも、とてもつらいんだよ。
もう、慣れたけど。
以前は、言葉が通じなくて傷つけ合ったよね。
だけど、もうやめたよ。

私は優しくなったでしょう。
落ち着いて、大らかになったでしょう。

違うよ。
無関心になっただけだよ。



2/15 悲しい光景

 ホームのベンチにぼんやり腰を下ろして電車を待っていた。
向かい側のホームに、3歳くらいの女の子とお母さんが、電車を待つ列に並んでいる。

女の子がお母さんのそばからはじき飛ばされた。
…え?何が起きたのだろう、と思った。
次の瞬間、女の子がお母さんの腰のあたりに抱きつこうと走り寄る。
またはじき飛ばされる。
…え? お母さんが突き飛ばしているの?
それでも、女の子はまた走り寄る。
今度は手が届く前に突き飛ばされる。
何度でも走り寄る。
泣きもせず、悲しい顔もせずに、無表情で走り寄る。
突き飛ばされてよろける。

何をしているの?
お母さん、疲れているのか、イライラしているのか、
そんなこともあるだろうけど…。
今、取り返しがつかない事が起きてるんじゃないだろうか。

女の子の無表情の奥に見える必死さと混乱が、
何かを思い出させる。
胸をえぐられるような気持ち。

彼女はいつか誰かに同じ事を。
無防備で無抵抗なものを傷つける。
信頼して愛してくれる人を拒絶する。

それは幼稚園のお友達かもしれない。
同級生かもしれない。
恋人かもしれない。
もしかしたらお母さんかもしれない。

悲しいことに、彼女自身かもしれない。



2/13 仏像

 昨日、国立博物館へ『唐招提寺展』を見に行きました。
仏像は何となく心惹かれるものの一つです。
色々な意味で宇宙を感じるからでしょうか。
…遙か昔に誰かが創ったものが、長い長い歳月を経て、今そのままの形で目の前にある事に。
…その造形が表す世界観に。
…仏の表情に宿っている宇宙の真理のようなものに。
…暖かくて近寄りがたい、その矛盾の中の安らぎに。

宇宙は、私がもっとも恐れている、そしてもっとも求めているもの…そんな気がするのです。

 目の前で、唐招提寺の本尊『盧舎那仏』を拝しました。
好きな仏像の前でいつも、その胸の中に抱かれたい思いに駆られます。(これって、不謹慎なのでしょうかね。)
そして数歩下がってあらためてもう一度見上げると、今度はその遠さが、ちょうどいい仏と私との距離のように感じます。
触れてしまったら、胸に飛び込んでしまったら解らないものが、つかず離れずのこの距離なら感じられる…と、そんな確信めいた感覚が心地よいような切ないような不思議な気持ちになります。

そして今日初めて、ふと気づいたのは。
私はいつもこうして、仏像に『父』を投影しているんでしょうか。

 自分の心の中に、自分でも手探りでしか解らない漆黒の宇宙があります。
そこに今日、少し薄明かりが見えたとしたなら、それは盧舎那仏が発した光かもしれない…そんなことを思いました。

2/6 再犯

 愛知県のスーパーで起きた幼児ら殺傷事件の犯人が、模範囚として刑務所を出所したばかりだったことがわかった。
奈良の女児殺害事件以来、「再犯」ということに社会の目が向けられている。
特に、再犯率の高い性犯罪を防ぐための法整備が問題になっているようだが、犯罪者の住所を把握し追跡したり、あるいは近隣の住民に公開したりすることが何よりもまず最初に検討されているのは、あまりに的はずれのような気がする。

この二つのような事件は、通常理解できないような衝動(激しい怒りや、特殊な性衝動や、憎しみや、不安、恐怖…)が彼らの内に湧き上がり、それを理性で押さえることをせず、または努力が及ばずに罪を犯してしまう…というケースも多いだろうと思う。
以前key wordsの「再演」に書いたような、本人のコントロールの効かない無意識が演じた結果である可能性を感じる人も少なくないだろう。

ただし、そのような考えを公の場で口にすることがはばかられるのは、それが周囲に犯人擁護の印象を与えてしまう可能性がとても高いからだ。
例えば、誰も彼もが、酷い、理解できない、考えられない、極悪非道だと犯人について口にしている場で、この犯人の中にやむにやまれぬ衝動があり何度でも同じ罪を繰り返すのは何らかの理由があるからではないか…などと言えば、たちまちその場の人々から非難の目を向けられかねない。
まして、この人もヘンタイの気持ちがわかるヘンタイなのかと有らぬ疑いをかけられたのではたまらない。
実際私は、彼らの顔を見るとテレビ画面をぶん殴りたくなるくらい腹が立つのだから。

booksで紹介した「魂の殺人」という著作の中で、アリス・ミラーはアドルフ・ヒトラーの心理を専門家として分析した。
その時の世間の反応もまたそうだった、と書かれている。
彼らのような人物を二度と社会に送り出すことがないようにする、また同じような罪を繰り返させないようにする一番の近道は、孤立させてしまうことではなく、それ以前に理解して犯罪に向かう心の根元を絶つことだと思う。

 服役中の犯人に、再犯を防止するためのカウンセリング等の治療行為をしようと試みている刑務官達が以前テレビの取材に応じていた。
彼らは、救えるのはほんの一部、費用も時間も人手も足りないと訴えていた。
けれど、再犯を本気で防止しようとするなら、彼らのような試みがまず一番効果的ではないかと私は思う。

でなければ、刑務所の中に生涯隔離しておく以外ないだろう。
決して社会に存在してはならない人間として。
もはや、二度とやり直すチャンスを持たない、人間であることすら否定された者として。





1/30 共有

 母親のわからずやな所や手の付けられなさやを、娘と一緒に笑い話にしている。
娘から見ても、祖母である私の母は、一筋縄ではいかない人に映るらしい。

私にとって割り切れないことは山ほどあるけれど、客観的に見て一人の女としての母は心休まることのない人生だったはずだから、それを思えば同情もできる。
ゆったりとした心で、子ども(である姉や私)に向かうことが出来なかったとしても、無理もない。
私の母としてではなくて、一人の弱い人間として同じ目の高さで彼女を見れば、許せないことも少しは大目に見てもいい気がしてくる。
そう思えることは、悔しさや悲しさをさかのぼって私と共有してくれる夫のおかげでもある。
そしてそれが可能になったのは、夫に心を開くことが出来た私自身の進歩でもある。

一方で私とよく似た価値観を持つ娘が、少しだけ大人の目線で私を含めた周囲の世界を見ている。
彼女は、その世界の中で生きてきた私を、そしてこれからも生きていく私を、公平にジャッジしてくれることだろう。
そう思えることが、少しだけ私の気持ちを安らかにし、背筋を伸ばして歩かなければと思わせてくれる。
娘もまた、こういう共有の仕方で私をやんわりと前に押し出してくれる。
そしてそれが可能になったのは、不器用で不完全な私が、唯一娘に正直であることだけは全うしようとしてきた、過去からの積み重ねではないか。
と、そう思いたい。
そうであればいいと思う。




1/15 自己肯定感を育む

 明るく礼儀正しく自由に日々を楽しんでいる新婚の女性を、ネット上のお付き合いだけではあるが知っている。
彼女のブログに、こんな事が書いてあった。

元来が個性派とか少数派とかが好きで、映画でも悪役を応援することが多い。どう見ても、主役より渋くてカッコイイ悪役も多いもの。

様々な映画の名悪役を並べ、その魅力について書いてある。
そして、映画のみならず少数派で個性的なもの…車でも、PC関係のものでも、スポーツの種類でも…についても語られていた。

読んでしばらくして、突然思い出したことがある。

 ある夜、家の居間でテレビを観ていた。
サスペンスか、刑事もののような他愛のないドラマだったと思う。
私が小学生の頃のことだ。
ドラマはクライマックスに達し、犯人逮捕に向けてもう一歩のところで追跡劇が繰り広げられいた。
手に汗握る場面で、私が応援していたのは「犯人」の方だった。
ドラマに入り込んでいた私は、そばにいた母に向かって不用意にこう言ってしまったのだった。

「こういう場面で、犯人のほうを応援しちゃう事もあるよね〜。」

「そんなこと、普通じゃ無いわよ。あなたにはそういうところが有るのかもしれないね。嫌ねぇ。」

またしても後悔先に立たずだった。
またしてもこのサディストに心を許してしまった、迂闊だった。

前述の女性が選んだ旦那様もまた、個性派で少数派であるらしい。
ブログを読みながら、彼女がそれをいかに愛おしく誇りにしているのかを感じた。

子育てしているお母様方、子どもの自己肯定感を育む力も、他人の個性を愛する心を育む力も、そしてそれらをスポイルする力も、母親は握っているのです。

要注意です。

1/9 メンヘルサイトの甘え?

 いわゆるメンヘルサイトには管理人自身の生い立ちや病歴などについて書かれたカテゴリーが存在することが多いようです。
怒りをぶつけるような激しい文章もあれば意識的に突き放したような客観的なものもあり、また体験をリアルに語ったものもあれば、散文や詩で思いの核心を綴ったものもあります。
それらは、時として自己陶酔的で、自己憐憫の情におぼれていて、排他的で、独りよがりに感じられるものかもしれません。
このサイトで私が自分自身のことを書いた"about me"も、多分同じ印象を与えることがあると思います。
読み手に甘えと映ることも、それ故に前向きな人々を不愉快にさせることも、苛立たせることもあるでしょう。

そうした行き違いが、トラブルの原因となったり、それ故に予測を越えた決定的なダメージとなってしまうこともあります。
常々感じでいたこのような誤解を、私の個人的な視点から言い訳とともに説明してみようかと思い、それを今年初めての雑記に書くことにしました。

 私や、私の知る限りのいわゆるメンヘルサイトの管理人さん達は、当然現実世界でも淡々と日常生活を送っているはずです。
仕事をし、学校に行き、子供を育て、職場の人々とコミュニケーションをとり、組織の中の人々や友人、家族との付き合いの中で苦心し、時には落ち込み、時には助けられながら暮らしているわけです。
その中で、人一倍躓きやすい自分や、周囲の人々が出来る事がなかなかうまくいかない自分を自覚して、その理由を探りながらなんとか上手くやろうと試行錯誤しているのです。
そして考えることや、知識を得ることを通し少しずつでも良い方向に進む、その手段として過去や現在の自分を見つめ直そうと、個人的な出来事や思いをネット上で語り始めるのだと思います。

 私は、自己表現をすることがとても苦手です。
以前はもっと苦手でした。
自己表現の手段を、絵であったり無言の行動や反発であったり文章であったり、少なくとも話し言葉や表情以外のものに託すことが多かったと思います。
押しつけられた運命や不愉快な状況に、真っ向から反発したり改善したり身を守ったりということが出来ないほど幼かった時期はともかく、自分の力で生きていく事が出来る年齢になってからも、前向きに未来を切り開いていくために自己主張することは私にとって苦手な作業でした。
それは、私にもそういうことが出来るのだということが思いつかない、そういうからくりの中に絡め取られてしまっていたからでもあります。
もちろん、自分自身の努力不足や意志の弱さでもあります。

そういう経緯の果てに、望まない状況とその中で足掻く自分をなんとかしたいと意識し始めたとき、私はかつて出来なかった事がネットの世界でのコミュニケーションや文章での表現でなら出来ることを、そしてそれがきっと自分自身の目的達成の役に立つであろう事に気づきました。

 自分自身を語ることに臆病で、しかも不慣れなのは、私がそういう訓練をしてこなかったから、そして何より、「本当の私が誰かに受け入れられること」に関して、いくら理屈で解ってはいてもそれが現実にあり得ることだというのがどうしても信じられないからです。
けれど自分を語ることに人一倍飢えているのです。
それを実現出来たのは、ネットの世界だからこそでもあります。
例えば誰かを目の前にして同じ事を語れといわれれば、相手の顔色を見て、私がその人を不愉快にしてはいないだろうかと顔色をうかがう事に気をとられ自分が話したいことはどうでもよくなるのが常です。
不安になって曖昧に笑ったりしながら、悲しい気持ちも怒りも表に出すことなく諦めてしまうはずです。

そんなふうにして、長い間結局声に出されることがなかった、無理矢理に飲み込まれて蓄積されてきた言葉ばかりが、ようやく吐き出される場所を得て、メンヘルサイトの中に並べられたのだとしたら、その中身は、甘えであり、愚痴であり、怒りであり、嘆きばかりであるのは自然なことでしょう。
それらが、後ろ向きと受け取られ、誰かを不愉快にさせ、苛立たせることは大いにあり得ることです。
けれど、きっとそれらの文章を書いた人々は、日常生活の中で真面目に仕事をし、頑張って学校に行き、不安の中で子供を育て、苦手な人ともコミュニケーションをとりながら、上手く笑えているか、その場の雰囲気から浮いてしまっていないか、必死で考えながら苦心して笑顔を振りまいているかもしれません。
全く何の問題もないような笑顔を、周囲を気遣いながら、神経をすり減らしながら。

きっとそうだと思います。
そしてその疲れを、自分の作った場で回復しながら、バランスをとっているのかもしれません。

 長い長い言い訳になってしまいました…(__;)

 




1/3 謹賀新年

 
今年もどうぞよろしくお願いします。

before