2005-2 7/16 電車男のような話もあるけど、一方でネットの世界全体を、殺伐とした空気がうっすらと覆っているような気がする。 私を始め、この世界で自己主張をしコミュニケーションをし、救われている人もいる。 リアルで上手くコミュニケーションが出来なかったり、自分の考えを述べることに躊躇してしまう、そういう人には練習の場であったりもする。 けれど、自己主張の延長線上に、他者への批判がなければ気が済まないのはどうしてなんだ。 嫌になるよ。 誰かを批判するのは、誰かの考えを批判するのは、誰かの行動を批判するのは、いけないことではないけれど。 ほとんどの物事の、答えは一つじゃない。 間違いばかりを血眼になって探し回って、正解の枠をどんどん縮めて、そこに入りきらないものを、片っ端から突き落としていくのが、それが正義か? 議論をすることは大切だけど、その議論の目的は、自分と違う考えの人をたたきつぶす事じゃない。 何が私達にとって一番良いことなのかを、一緒に探るためだ。 こんな社会に生きていることに、とことんウンザリしてしまう時がある。 6/28 昨日、何の話をしていた時だったか、 「私はおかあさんに似てるよ。」 と、娘がぽつりと言いました。 「そうかな、似てるかな。」 恐る恐る尋ねると、 「似てるよ、そっくりだと思うよ。」と、娘。 「悪いところは似ないで欲しいなぁ…。」 「良いところだって似てるよ。 コピーみたいに、私はおかあさんにそっくりだよ。」 あまり力説するので、嬉しいような心配なような。 自分のこと、好き? すごく聞きたいことが、言葉に出来ませんでした。 6/23 最近身近で訃報が続きました。 自分自身が死ぬことを考えた時、誰もが気になるのは『死後の自分の行方』でしょう。 けれど、恐ろしいことに、それに関しての明確な答えはありません。 タナトフォビア(「死恐怖症」)の人に、「死は終わりではないし、その先は無ではないと思う」といくら力説しても、納得しません。 「無ではないことを証明できる根拠があるのか」と、逆に問われれば、完璧に証明出来る根拠が何もないことに改めて気づかされることになります。 いくら、特定の宗教を強く信じていても、いくら死後の世界を垣間見た経験があるとしても、それは絶対的な根拠にはならないのです。 輪廻転生や魂の存在を、根拠もないままに漠然と信じている私は、人が死んだら無になるという恐怖はそれほどありません。 ただ、死によって訪れる『喪失』には、暗闇に吸い込まれるような恐怖を感じます。 身近な人の死は『喪失』です。 それは、間違いありません。 しかも、 この世のあらゆる『喪失』の中でも、『死』ほど絶対的な、決定的な喪失はありません。 恋人や家族と別れても、たとえ遠く離れても、行方が解らなくなっても、再び会える可能性が皆無になったわけではありません。 限りなくゼロに近い可能性であっても、ゼロではないのです。 けれど、死がもたらす『喪失』においては、間違いなく、絶対に、ゼロなのです。 そして、死は、こちらの事情などお構いなく、話し合いの余地もなく、何の譲歩も妥協もなく、ごっそりと強引に、ある時は突然に、確実に大切な人を奪っていくのです。 こころの支えとなる、ほんのわずかな可能性も、残すことなく。 圧倒的な『喪失』だけを残して。 6/18 『場』の持つエネルギーはあなどれない。 先日、10代の終わりから20代のはじめに、多くの時間を過ごした場所に行ってみた。 何かの用事で近くを通ったり、通過したりすることはあっても、『その場所』には久しく行ったことがなかった。 懐かしかった。 すっかり小綺麗になってしまって、見違えるようだった。 私はその場所で何枚も何枚もデッサンをし、油絵の具の匂いに包まれて、来る日も来る日もイーゼルの前にいた。 どこか居心地が悪かったけれど、居場所がとりあえずそこしかなかった。 そこからすぐの古い小さな洋食屋さんに、夫と入って食事をした。 「ここがいい。」と歩き去ろうとする夫の足を止めたのは、微かに記憶がある店の名前だったからだ。 偶然なのか、懐かしい音楽ばかりがかかっていた。 「有線なのかな。」 ブラック・マジック・ウォーマン、迷信、ボーン・トゥ・ビー・ワイルド、そしてタイトルはなんだったかハートの曲…。 この店に、来たことがあるかもしれない…記憶の細い糸を少しずつたどってみるけど、あの頃、毎日何を食べていたのか思い出そうとすると、甦るのはデッサンに使った残りの食パンと、自動販売機のコーラ。 その組み合わせが、いつもの私のランチだった。 今現在の、現実の、穏やかに暮らす家に戻ってから、何かが心の中で目を覚ました、そして動き始めた。 もしかしたら、あの頃、私は一番彷徨っていた。 一番せっぱつまっていた。 そういえば、私は残酷な言葉をいっぱい吐いた。 人の優しさに、刃を振りかざした。 さしのべられる手を、振り払って睨み返した。 そうして人をたくさん、傷つけた。 目を覚ました何かを、こうしてもてあましてしまうことは、私自身が予測していた事なののもしれない。 けれど、もしかしたらもう、そこには何も居ないのか、それとも普段息を潜めている何かがまだ居るのか、どうしても確かめたかったのかもしれない。 6/11 家族の情景(かなり後ろ向きな分析) 〜何も決められない 実家の一族が全員集合した日、今夜何処に何を食べに行こうかという話になると、決めるのに数時間費やします。 それでも決まらず、果ては話題がそれたり、口論になったりして収拾がつかなくなり、挙げ句に本題はそっちのけになってしまい、大喧嘩になったりします。 かつて、家ではすべての決定を父がしていました。 通常、何かを決めることの第一歩は、迷いから始まります。 そして選択肢を頭の中に並べてみる、それぞれの選択に関する客観的な情報を収集し整理する、想像力、洞察力などなどを駆使して結果をイメージする…。 …というプロセスを経て決定に至ります。 そもそも、家には最初の「迷い」がありませんでした。 迷う前にもう、何もかもが決められていたように思うし、たまに迷うことがあったとしてもれば、それはいつ父に決断を仰ぐか、だけを決定すれば良かったわけです。 だから、この決定のプロセスに対する経験値が皆一様に低いのですが、何よりも弊害になるのは、決断に伴う責任を負うことが出来ないということです。 プライベートな決断にしても、、大きな組織のトップとしての決断にしろ、それには必ず相応の責任が伴うのが社会のルールです。 この決断に伴う責任を負うことの経験値も、同様にとても低いわけですが、そのためか責任に対する不安と恐怖が克服できないのです。 責任を負い慣れていないのです。 「私はこうしたい」を言うことによって発生する責任を負う勇気がないのです。 で、どうするかというと、自分の願望を誰かに言わせるようにし向けたりします。 「この間、Aは和食が食べたいって言ってたよね。」 …みたいに。 仮にそこで、では和食にしましょう…という話になったとして、それが自分の望みと違うBは 「私はいいけど、Cがそれだとかわいそうだから。」 などと、イタリアンが好きなCのことを持ち出して阻止しようとします。 あくまでも、自分が不賛成だと言うことは言いません。 そこで今度Cはどうするかというと、利用されているとも知らずに 「いや、私は別に和食でもイイよ。」 と妥協するかのように振る舞うのですが、皆がCに同情する空気になるので、なぜかその時点ですでに、和食組は悪者になっているというわけのわからなさです。 「じゃ、それはやめるとして、Bは何が食べたいの?」 というと、 「私はいいよ、何でも…。」 と言い、 「じゃ、Cはどう?」 と聞くと、 「みんなの好きなものでいいよ。」 と言います。 いつ爆発するか解らない風船を、急いで隣の人に回していくゲームのようです。 こうして話は振り出しに戻り、延々とこれが繰り返されるので平気で数時間経つわけです。 その間に、あのレストランは美味しくないとか、誰々がまずかったと言っていたとか、いや言わないとか、誰と誰だけが内緒であの店に行ったことがあるらしいとか(つまらないことを秘密にするのが好きです)、誰は何を食べると蕁麻疹が出るとか、お腹を壊したことがあるとか、それでどこそこの医者に行ったらヤブだったとか、決定することを避けているかのように話がそれます。 その上、決定に至る話し合いにおいては、自分の意見が効力を持たないと気にいらない人々のパワーゲームが炸裂したり(効力を持ちすぎると逆に何かの形で阻止します)、それにまたピエロ役(場の雰囲気が険悪になると和ませようとして必死になるイタい役回り)が、結果的にさらに話をぐちゃぐちゃにしてしまうことになります。 そして私は疲れます。 (以前はキレました。) ところで、このような時、誰も思いつかなかったことをするのが我が夫です。 「とりあえずお腹がすいているので」 と言いながら、コンビニにお弁当を買いに行こうとし、「他に何か買ってきて欲しい人はいますか」と、おにぎりの注文を取ろうとしたため、全員が凍り付きました。 5/28 荒んだ人が通った跡には、荒んだ光景が残る その光景を見た人の心が また荒む 人を不幸にする連鎖を止めようとして 人知れず 人生の大半を費やして 誰に褒められるでもなく 当たり前のことをするのに何度もやりなおして 人並みに暮らすことに幾度も躓いて それでもそのたびに立ち上がってきた人達に 偉業を成し遂げました よくがんばりました 荒んだ心に残っていた わずかな暖かいものをかき集め 大切に大切に育てました きっとこれから先 あなたの通った跡には 人に勇気を与える光景が残る 子育て中のすべてのACさんへ ![]() 来月22歳になる娘が、素直に人を愛することが出来て、愛してくれる人の心をまっすぐに受けとめることが出来て、時々すべてのものにやさしい気持ちになれるような、晴れやかで謙虚な瞬間を持つことが出来たら、それだけで、私が存在した意義があるというものです。 本当は、もっとがんばれたかも、取り返しの付かないことを色々としてしまったかも…。 私の場合、後悔がいっぱいなんだけど…。 5/18 何から説明したらいいかな。 そう、まず、どんな時にフラバってしまうかっていうこと。 フラッシュバックって、…その…、過去のとてもショックだった出来事の、主に、その時の感情の部分だけが生々しいリアリティを伴って暴力的に襲いかかってくることがあるんです。 その結果が身体に…息が苦しいとか冷や汗が出るとか意識が遠のくとか、そういうような形ではっきりと表れるときは解りやすいのだけど、軽いフラバっていうのか…、比較的気は確かなんだけど興奮状態になって混乱してしまって、感情を抑えきれずに人に突っかかっていってしまう時があるんだ。 「あなたのここがわるい、いやだ、まちがってる」って。 そういうとき、これは単にフラバってるんだって気づくようになったのはごく最近で、それまでずいぶんと私、からんだよね。 あなたはぽかーん…としていたような気もします。 私の言葉に、一見理屈は通っているかもしれないけど何かがちがう、という感触を感覚的に持っていたかもしれない。 私のそういう態度の根っこに何があるのか、あなたには多分解らなかったと思うけれど、あなたは決して鈍感な人じゃないから、その尋常じゃなさをキャッチしていたと思う。 私は、冷静さを装って、心臓の鼓動も身体の震えも、気づかれないように必死に押さえながら屁理屈をこねまわしてあなたを批判していたけど、その屁理屈の底の、マグマみたいな怒りは、きっとあなたにはうっすら見えていたよね。 どんな時に…、どんな時にそんな事が起きてしまうのか思い返したら、なんとなくひとつのキーワードにたどりつきました。 それは、「尊厳」…だったんだよね。 尊厳を無視された、あの可愛い猫に、人質に、映画の中の死刑囚に、私はヒステリックに感情移入してしまって、それらの物事を語るあなたの冷静な口調と冷静な瞳の中に、私の尊厳を奪った人達の姿を重ねてしまっています。 何故、あなたなのだろうね。 甘えているんだろうね。 長い時間をかけて、やっと少し解った。 たどり着けるかな、いつかは。 安心できる場所に。 ここから先は、どうすればいい? ずっとずっと昔から、いつからだろう、とても小さかった時から時々、体中の神経の周りが何かでコーティングされてしまったと感じるようになった。 その感覚から開放されるときが、いつか、もしも来たら、もっともっと私は、自由になれるのに。 優しく素直になれるのに。 5/15 久々の実家はキツかとです(*´;ェ;`*) -----耳も遠くなっちゃったし、みんなの話が聞こえなくて…つまんないし。 もう、死んじゃいたい。 って、あんたは、耳なんか聞こえてたってどうせ人の話聞いてませんから〜残念( ´−`) なんだか知らないけど、自責の津波に追いかけられまくって具合が悪くなったよ。 愛情と憎しみの間、寄り添いたい気持ちと逃げ出したい気持ちとの間で、ずっとずっと引き裂かれ、これから先もいつまでも引き裂かれ続けるとはしんどいかぎりだ。 私に泣きながらグチらないでくれるかな。 多分、年老いた母が死んでしまった時、その時ついに私は自責の津波に飲み込まるんじゃないだろうか。 ああ、…やだ。 ああ、恐ろしい。 ああ、こっちが先に死んじゃいたいよ。 ていうか本当は、ただただ、私たちのことが悲しいよ。 5/8 連休中に、天童荒太の本を読みました。 私は彼の小説が好きです。 好きですって、あえて言ってみるのは、以前自分で暗闇の世界に入り込むことが実は落ち着くんだ、好きなんだって、開き直ったからです。 またそういう自分のことも、否定していた反面、きっとどこかで好きだったのだと改めて気づいたからです。 認めたら案外、楽なんですね。 新聞の折込の求人広告を見ると、募集要項には「社交的で明るい人」と書いてあるし、ワイドショーを見ると、犯人の昔の友人や先生が「何を考えているのか解らないところのある、無口でおとなしい子でした。」とコメントしているし、つまり今の世の中、「明るくて何考えてるか解りやすい人」であることは、善なのです。 話を元に戻して天童荒太ですが、彼の小説には必ず暗闇の世界が展開されます。 仮にそれをdark sideと名づけましょう。 私はそれに惹かれるし、そしてそこが落ち着くのです。 そういうのは、『善』とは言えない。 だから、みんなに好かれる明るく社交的な人間でありたいという無意識の呪縛が、日常的な無理となります。 それも疲れてたまらないひとつの原因かもしれないです。 それを天童氏をはじめとする、あらゆるお気に入りの人々の作った『dark side ワールド』というジムに行って回復するのかもしれないです。 ストレッチしながらコリをほぐしたり、自分をニュートラルに戻したりしているのかもしれないです。 まあ、とにかく好きなんです。 というより、生きていくうえで必要不可欠なんです。 5/1 H先生が、母校の校長先生になっていた。 ずっと気になっていた、H先生。 うれしい。 すっきりした気持ちで、about meの「H先生」を書きなおした。 またひとつ、少し霧が晴れた。 お元気で。 幸せでありますように。 ・・・と、ガラにもないことをつぶやいてみる。 4/21 私が今置かれている状況は、良くも悪くも、すべて私が選び取ってきたもの。 そう、だからホントは、良いも悪いも無い。 私のいるこの世界は、私の願いが形になったものだ。 ある部分で、私は妥協することよりも苦しむことを選んでいる。 染まってしまうことよりも、考え抜くことを選んでいる。 そういう私が、私は好きなんだろう。 「そうじゃない」と言いたくなるときもあるけど、やっぱりそうなんだよな。 きっと、そうなんだよな。 それで「助けて!」なんて、矛盾もいいとこだよな。 よし、這い上がれそうだぞ。 4/17 二つのドキュメンタリーを同時に読んでいる。 死刑囚関光彦と、マザーテレサ。 どちらへ向かう道も、私の立っているこの場所から繋がっているように見える。 右と左、北と南、愛と憎しみ、慈しみと怒り、救済と犯罪、聖人と鬼、ALLorNOTHING…。 それらはすべて対極にあるのではなくて、一本のライン上の、ある位置を示す点にすぎない。 4/12 ホントに同じ事を何度も何度も繰り返すなぁ。 少しでも上に向かってるんだろうか、螺旋階段。 焦らない、焦らない。 自分を裁かない。 4/10 むしろ思い切り開き直って、ダークな世界を掘り下げていたら落ち着いてきた。 「ここ」にいたいときは、居続けても良いんじゃないでしょうか。 「ここ」にいることは善でも悪でもない。 そもそも「ここ」には、善も悪も存在しないでしょう。 4/6 怪我をしている心とか、ゆがんでしまった心とか、誰かに蓋をされて閉じこめられている魂とか、暗いところでうずくまっている身体とか、流された血とか、傷跡とか、 そんなもんを求めてネットをさまよってる。 さまよって、見つけて、グラグラとめまいがして、息を切らしながらむさぼり読んで、少しほっとして眠る。 暗闇が好きなんだ、もぐらみたいに地下を歩くのが好きなんだ。 何かあるとここに帰ってくるんだ。 だから、ここから抜けられないんだ。 4/4 見るもの聞くものすべてが、 人の表情や言葉や態度が、 「ほら、それがダメなんだよ ほら、また、…それだよ、 あんたやっぱり、変なんだよ。」 って言ってる気がする。 でも言ってるのは自分だ。 自分だ。 自分が黙ればいいんだ。 4/3 唯一、自分嫌い度をこれ以上上げない方法は、「何もしない完璧主義者」を貫くこと。 あがいたらダメ。 努力してもダメ。 …生活してると、そうもいかない。 しかもこれじゃ、逆戻りだ。 4/2 絵を観ることって、シェアリングの基本なんだな。 4/1 雑記のページか一番更新頻度が高いので、面倒くさいからここを最初に開くようにしました。 数日前から「自分嫌い度」がどんどん上がっていて、これはどうしたものだろう、放って置いても大丈夫だろうか、放って置いたらまた引き返すのにかなりしんどい思いをすることになるだろうかと、考えるともなく考えている。 もう、うんざりするくらいに毎度のことなので別にパニックになるわけでもなく、真剣に考え込んだりするわけでもない。 けれど、このパターンの行き着くところは幻聴かPDかで、幻聴となると、その時自分が正気じゃないことを見定める自信がない。 一日一日をただ生きることが、しんどくてたまらないときがある。 まるでなにかに取り憑かれたみたいだ。 桜が開花したばかりの新年度から、こんな事を自分のサイトに書いてる私を、そのうち誰も相手にしてくれなくなるだろうか。 甘えさせてくれ〜。 お願いだ。 |