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2007

11/6

 二ヶ月ほど前、about meに書いたH先生が亡くなったことを知りました。
訃報を聞いてこれほどまでにショックを受けたことに、自分自身が驚きました。
その後時間が経った今でも、この世に先生がいないという事実に思い至るとたまらない気持ちになります。
せめて一度謝ることが出来たら、お礼を言うことが出来たら、先生がどれほど私にとって大切な存在だったのか、それを伝えることが出来ていたら。
小さな勇気さえ出せなかった自分に、後悔ばかりがつのっています。
今できることは、ここにこうして飾らない気持ちを書きながら、これが先生に届くことを祈ることだけ。

先生有り難う。
それから、ごめんなさい。
私に話しかけてくれて、耳を傾けてくれて、向き合ってくれて、本当は嬉しかった。
素直じゃなくてごめんなさい。
あの時は自分の心の中さえ、何が何だか解らなかった。
でも今、先生が言った色んな言葉が、私を認めてくれた先生の存在が
私の人生の宝物になっています。
大人になった今、先生は本当に素晴らしい教師だったと
ようやく解るようになりました。





…先生に届くと良いな。








7/17

 自分のパワーゲームを止めるのはなかなか難しいけれど、その1つの方法として、他人のパワーゲームを観察することはとても有効だと思います。

しかし現実には、親密な人間関係や日常のコミュニケーションの中で、気づいたら自分が人を巻き込み、あるいは知らぬ間に巻き込まれている…ということがACにはよくあるのではないかと思います。

パワーゲームには、とても解りやすいものもあるけれど、水面下で起きている解りにくいものもあり、また、パワーゲームがもとで起きたトラブルの仲裁をしている人がそもそもパワーゲームの一員…あるいはそれどころか中心人物になってしまっていることも多かったり、そしてまさにそれが自分自身であったり…と、解きほぐしていけばいくほど意外な真実が見えてきたりします。

 まずは自覚することからが第一歩。
そして、そこに入り込みそうになっている自分を発見することが出来たら、とにかくその時点でやめる。
あとでゆっくり、その時の自分や相手のことを思い出しながら自己分析をしていくようにしています。

もともと自己評価の低いACがはまりやすいということでも解るとおり、これは「勝つことで自己の価値を確認する」という方法でしか自己肯定できないという、哀しいACの習性です。
ありのままの自分がOKなんだ…と、言い聞かせても言い聞かせても納得できないというやっかいな部分が根底にあるために起きるわけです。
だから自覚して気を付けようとしているにもかかわらず、また巻き込まれ、巻き込んでしまう。

でも、「勝つ」って何でしょう。
それは実体のない…、特にパワーゲームでは絶対に手に入らないものです。
すり込みが創り上げた幻想の安らぎの地です。

他人のパワーゲームを見ていても自己分析をしてみても思うのは、この終わりのないゲームに労力を費やそうとしているときは、現在の自分に自信を持てないでいる、あるいはコンプレックスに触れるテーマや人が関係している、そういう状況が多いように思います。

ですから、冷静な自己分析が出来るようにする一方で、今の自分が、愛し愛される人間関係の中にいることを確認することも大切でしょう。
そしてそのような幸福の中で、さらに豊かに愛情を育もうとしている「現在の私」をいつも自覚し誇りを持って、そしてその状況にも自分自身にも感謝すること。

私は愛されるに値する人間であること、相手をゆったりと愛情で包んであげようと思えるような人を愛することの出来る自分であること…そういう自分を好きなること…それを忘れないようにしなきゃと…考えています。

とりとめがないけど、自分自身への今日の覚え書きです。

                         参考keywords パワーゲーム










4/22

 数日前、職場の昼休みにボビー・オロゴンの話からナイジェリアの一夫多妻制の話題になりました。
女性の同僚の一人が、
「私は一夫多妻の方がいいや。」と言うので、別の同僚が
「え、一妻多夫じゃなくて?!」と意外な様子で聞き返したところ、
「そう。だって旦那の世話するのみんなで出来るから楽じゃん。」とのこと。

そんな他愛のない話でとっても盛りあがっていた時、ふと
『うちの親も一夫多妻だったんだよ。だから父親の介護もシフト組んでやれたから凄い楽だったよ。』
と言いそうになって、しばし考え思いとどまりました。
結構レアで貴重で興味深い話だと思うんだけど、でもその発言で一気に盛り下げちゃうのも困るので。

普通と少し違う子ども時代の思い出を持っている人、いえ、ちょっと変わった体験っていうだけならともかく、まぁ、いわゆる世間的に『不幸な生い立ち』的なカテゴリーに入りそうな思い出があると、こういうちょっとした葛藤があるんじゃないでしょうか。

こういうのは、実は本人にとってあまりに当たり前で不幸とかいう感覚とはほど遠く、ごくごく日常的なことなのですが、ものごころついた頃から
『これは当たり前ではないらしい。』とか、
『これは軽々しく口にしない方が良いらしい』とか感じ始めて、むしろその事の方がよほど不幸でした。
さすがに大人になると
『この話題は気をつけないと時と場合によっては周囲が引いちゃうみたいだ。』
と、気を遣うようになりつつも、何かばかばかしいような本末転倒のような矛盾を感じたりもします。

とまあ、こんな事を考えているうちに楽しい昼休みの話題から一人でズームアウトしていっていつのまにか心は遠く離れて傍観者になっている…というようなことがあるわけですが、それこそ淋しいというのかつまらないというのか。
でもやっぱり、人に迷惑かけるので安易にしゃべらない方がいいのかもしれません。
子どもの頃はその小さな孤独を一人で抱えて積み重ねるようにしていましたが、今の私は違うので、その淋しさとつまらなさをここで訴えて解消してみることにしました。






2/3

 一昨年の夏ここに「祈り」について雑記を書いた事がありましたが、先日久しぶりに伊丹十三の「静かな生活」という映画を見て、またあらためてそのことについて考える機会がありました。
「静かな生活」は、大江健三郎氏の同名の小説が原作になっています。
映画の中でも原作でも、登場人物の小説家Kがある場所で「祈り」について語ったことがひとつのエピソードとして盛り込まれていますが、これは大江氏の現実のお話でもあります。
その語った内容が故に、小説の中のKは宗教がらみの人たちからのアプローチをうけて閉口する話が控えめに語られているのですが、人一倍生真面目な大江氏のこと、それがきっかけで精神的ピンチに陥るという展開は小説の中だけのエピソードではなさそうです。

私も宗教とかそういうものとは別の次元で、以前のシスター・ダフの話の時に書いた祈りの神髄のようなものを、もう少し発展させて考えました。
私は無宗教ですが、自分なりの根拠の無い信念のようなものがあって、輪廻とか魂とか、なぜかそういうのは無条件に肯定しています。

もう15年ほど前のことですが、私はあることを祈りました。
そのころ私は人生最大と言っていいほどのピンチのさなかでしたが、自分のそのピンチを今回の人生に課せられた課題だと認識して腹をくくっているところがありました。
人がある課題を持って生まれてきてそして死に、また新たな次のステップを上がるためにさらに新しい課題を持って生まれ直す…つまり輪廻ということを無意識に前提として私は考えました。
自分の人生にはもうとことんうんざりしていたこともあり、かといって自殺をしたら今までの苦労は水の泡だ…というような持論からくる損得勘定もあって、とにかくこの目の前のハードルを淡々と越え、苦しいことはじっと堪え忍ぶしか無いと。そのかわりこの人生を全うしたら、もう二度とこの世に生を受けるのは金輪際ごめんだと思っていました。
そこで私は考えたのです。
もし、私の魂に課題というのがあるのなら、それを今生ですべてクリアしてしまえばもう生まれてこなくて済むのではないかと。
そこで私は祈りました。
『どんなに苦しい目にあっても、何度あってもかまわないので、今生ですべての課題をクリアさせてください。』

輪廻だの魂だのという前提が真実だと仮定して、私のこの祈りがかなうのは多分不可能だと今では思うのですが、けれどまんざらこの祈りは意味のないものでは無かったのではないか。
現在の自分の状況を振り返ってみて、そんな気がするのです。
その辺の理由を書き出すとまた話が長くなるのでそれはまた機会があったら…ということにします。

そのようなあれこれを思いつつ同時にあの時のことを振り返ると、「祈り」とはまさに自分自身の心の深遠な無意識の奥底と対話し、その「祈り」といういかにも宗教的な言葉の印象とは対照的に自分の人生の方針について事務的に検討決定することでもあると、あらためて思ったのでした。









1/7

 明けましておめでとうございます。
久しぶりの更新ですが、
この半年、まあまあ無事にそこそこ穏やかに過ごしています。
自分の課題は色々とありますが、半分は諦めの境地。
諦めることも知恵だと思いつつ…。

私の課題の多くは、あまりに社会的に未熟であることです。
「自分として生きている」という感覚を徐々に持てるようになってから、やっと解りはじめたことばかりで、

『そうか、多くの人たちはこの事を自然に会得していたのか』

と今になって気づくことが多くて
本当に遅いスタートをきって、
未熟なままの状態で無謀に飛び込んで
この実年齢の顔と体で、
ギャップを抱えたまま社会に身をさらしているような気がします。
毎日毎日、悔やんでは反省して
たびたび落ち込んで、
たまに落ちて落ちて上ってこれなくなって…。
それの繰り返しですが、
周囲に迷惑をかけないように気をつけ、
後は、この自分の未熟さと辛抱強くつき合うしかない
あせっても仕方ない…というところです。



***


 時々、エネルギーの補給に興味のある創造物を見に行きます。
絵画だったり、映画だったり、彫刻だったり、音楽だったり。
そんな時間も、最近は以前よりもっともっと面白さを感じられるようになりました。
その原因は、それらの作品を見て『解ろうとしなくなった』からだと思います。
どんなに評価の高い芸術でも、
何も感じないものは、自分にとって「つまらない」でかまわないのだし、
5年後の自分は感動できるのかもしれないけど、
今の私にはとにかく「わかんない」んですから。
そして、「わかんない」「つまんない」って言っちゃってもいいわけです。
裸の王様の子どもみたいに。

そういうわけで昨今、
私はそれらの創造物を『解る』をまったく抜きにして『感じる』ためだけに見に行ったりしています。
そうすると、作者と時空を越えて対話でき、それによって経験値を上げ、
エネルギーを得ることが出来るのだと気づきました。

もっと早く気づけば良かった。

思えばそんなことばかりです。
もっと早く…、いえ、
今気づいて良かった…と思うことにしなきゃ。

ではまた、いつのことになるかわからない次の更新まで…(^_^)ノ

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