9/27(月) ずっと考えていたこと


手にしていた小石がすべって落ちた
落ちて落ちて
どこまでも落ちて
小さな音と共に
暗闇の中に波紋が広がった

ここには湖があったんだね
真っ暗で何も見えなかった
波紋は小さくなって
そのうち消えた

ここには湖があったんだよね
今はもう何も見えないけど
微かな水音の余韻だけが
まだわずかに空気を揺らしているような

ここには湖が今もあるんだよね
すでにもう暗黒と静寂しかないけれど
水の中に落ちた小石は
もう底までたどり着いたろうか

金色の波紋
澄んだ水音
それは私自身であるのに
凛として私を受けいれない

そして何もかもを
再び私は忘れてしまう
湖の存在さえも

何故なら
忘れたいから


9/9(木) Syd Barret

このサイトのネーミングに関わりのあるPINK FROYDというバンドに、初期の頃のリーダーでもあったSyd Barret(シド・バレット)というギタリストがいた。
彼は、PINK FROYDの曲作りを担当し、バンドのボーカリストでもあったが、ファーストアルバムリリースの後あたりから、精神に異常を来しドラッグにはまっていく。
そして失踪、脱退。その後、ソロアルバムを出すが、それ以後の彼は音楽の世界に姿を見せなくなる。
彼は"狂ったダイヤモンド"と呼ばれた。
今日、ネットでたまたま彼の絵に出会った。
これは私が見たいくつかの絵の一つ。
息苦しくなるようなこういう世界に吸い寄せられてしまうのは、ここから発する底なしの恐怖に引きつけられるからだろうと思う。

時々、入りこみそうになる恐ろしい孤独がある。
とても太刀打ちできない、どうにもならないものだから、とりあえず私は見えないところに追いやってしまう。
逃げることもかなわないし、どう克服して良いのか見当もつかない。
体を固くしてじっと堪えていても、きっとやり過ごすことが出来ない。
けれど、追いやることが出来ないほどに近づいてきたら、私に覆い被さってしまうようなことが有れば…。

その時私は、その恐怖の懐の中に自分から入りこんで行くのかもしれない。
外から見る恐怖は堪えられない。
恐怖にすっぽり抱かれたら、そこは少しは暖かいんだろうか。

それが、シドが見た世界なんだろうか。







9/2(木) 「毒になる親」

 というショッキングなタイトルの本を読んだあと、少しあっぷあっぷしかけてしまった。

なんだ、母親にばかりかまけていて、忘れていた。
もっと問題山積みかも知れない父親との関係を。

やれやれこれからまた、一仕事残ってるのか。
多分こいつをなんとか片づければ、私は社会との関わりの中で、もっと楽になれるはずだ。
父には、あまりに無感情でここまで来たから、怒ることも忘れていた。

客観的に怒らなければならない状況であるのは確かなのに、ほとんど怒りが湧いてこないのは、もしかしたらそれを全部母親にすり替えていたからだろう。
父に『選ばれなかった』母に、父に『選ばれなかった』自分に、怒りの矛先を向けてしまったかもしれない。
私は、父を憎んだり怒ったりすることを避けるために、現実を歪曲していたようだ。

 そんなことを考えていたら、なんだかあれほど腹立たしかった母の無神経さが、少しずつだけど、少女のような無邪気さに変換され始めた。
それと同時に、私は、私の父について何も知らないということに、気づいて驚いた。

 さて、「毒になる親」の最後の単元では、『親との対決』をすることを勧めている。
なにも、勝ち負けをかけて言い争うのではない。
むしろその逆に、感情的にならずに、冷静に、いつものパターンで親の言葉に絡め取られることなく、自分の真の思いを伝えるのだ。
真の自立のセレモニーだ。

 私のように死んでしまった父にはどう対決すればいいのか…というと、手紙を書いて読み上げるのだそうだ。
父の写真とか、父に近しい人とか、とにかく私にとっての父親のシンボルのような何かの前で。
そのうち、やってみよう。

自分が何を書くのか、書きながら何を発見するのか、怖くて、そして楽しみだ。
書き出しはこんなふうかな。
『私は、あなたのことが良くわかりません。』

本当に、わからないことだらけだ。
本当に、私はあの人のことを何も知らない。
多分、凄く好きなのに。


8/20(金) 一人で立つということ
  〜毒吐きバージョンなので、鬱気味の方は読まないでね

 久しぶりに旧友と会ったことがきっかけで、色んな事を考えている。
お盆休みに入る少し前のことだ。
 
 私は、気持ちがぐらぐらと揺れている時期だった。
目を見開いてもっと真実を見ようとしたのはいいけれど、その時自分の見てしまったものに少し慌ててた。
一瞬見えたような気がしたその光景は、私にとってカリスマだった父の、真実の、ありのままの、等身大の、ただの男としての姿だった。
長い時間をかけて、やっと見えるようになった光景だった。

 数年ぶりのK子は何も変わっていなくて、相変わらず自分の足で、大地にしっかりと踏ん張って立っていた。
見た目はふわふわと漂っているようでいて、けれど、ぐいっと押してもビクともしない。
そんなところが以前のままだった。

独身で、お気楽極楽生活を満喫している彼女は、私の家の中をちょっと見回してこう言った。
「一人も悪くないけど、こうして見ると二人の生活もちょっとうらやましいねぇ。」
そういいながらも、彼女の自信に満ちた姿は、堂々としていた。

 あの日から、ちょっとずつ考えている。
一人で立つということを。

「人」という文字の形のように、人は一人では生きていけない。
…という、話がある。
支え合って、寄り添って生きるのだと。
それについては異論はない。
人が一人では生きていけないこと、助け合い、支え合わなければならないことは、痛いほど解っている。
だけど、「人」という文字が、私には共依存の、見えない力で縛り合いしがみつき合った二人の形にも見える。

一方が一人で立とうとすると、一方は倒れてしまう。
だから、自立させまいとしがみつき、寄りかからせる。
巣立とうとする足を必死で引っ張る。

言い分は
「今まで、さんざん面倒を見てやったのに。」
「あなたのために人生を棒に振ってきたのに。」
「ずっと自分のことは二の次で犠牲になってきたのに。」

だったら、何なんだよ。

「人」という文字の話は、共依存大国日本らしい、言い訳に使える便利な話にもなる。

 K子は、以前言った。
「いいんじゃない? 好きなようにやんなよ。私は応援してるから。」
ぶっきらぼうにそう言った。
「ありがと。」
私もあっさりとそう答えた。

 彼女の価値を、以前よりもっと解るようになった自分が、ちょっと誇らしい。
一人で立ってこそ、大切な人と寄り添って歩ける。
誰かがつらくなった時、しっかり踏ん張って、肩を貸せる。
そして元気を取り戻し、再び歩き出した時には、幸せを祈りながら見守る。

 いつかそんな人になりたい。
そんな母親でありたいと思う。



8/17(火) とっても嬉しい

そういうわけで、
…とっても嬉しい

2ショット

もっと嬉しい
 
3ショット

…です(;_:)



8/12(木) 少し解った

私が掘り起こそうとしているものが 
何なのか少し解った

昔々 そこに私が埋めたものだ
見たくなかったので
誰かに見られたくなかったので
埋めてしまった

それを掘り起こさなくちゃ
きっと 掘り出してみたら
それほど恐ろしくないかも
思っていたほど汚くないかも

大人の私が見たら
案外愛おしいものかも

見てみよう


8/2(月) 何かが

 歩こうとする私の足に、何かが引っかかってる。
こんな事言うと、頭がおかしいと思われる。
それは解ってる。
でも確かに、足に何か絡まってる。

 夕べ、夢を見た。
夫のために救急車を呼ぼうと電話をかけると、何故か母が出て私にわめき散らした。
何を言っているのか解らない。
何を怒っているのか解らない。
夫を乗せて、車を出した。
真っ暗で、何も見えない。
急いでいるのに。

そこは小学生から高校を出るまで住んでいた街の通りだった。
後ろからは誰かが2人追いかけてくる。
逃げるけど、もう間に合わない。
追いつかれる。

自分の叫び声で目が覚めた。

私は何か、とんでもないものを掘り起こそうとしているのかも知れない。
けれど、埋まった地雷に怯えて暮らすより、危険をおかしてでもそれを処分してしまわなければならない。


8/1(日) 人生を楽しむ

 今まで理解できなかった数々のことが、視界が開けるようにぱぁっと見えた気がした。
ずっと解らなかった事の答えは簡単な一言だった。

「人生を楽しむ」

 とても楽しそうな通りの、入り口が見える。
まだ入り方は解らないけど、その通りがどこにあるのかが解った。
そこには、今まで私が理解できないと思っていた人々が歩いている。
いつか私も、その通りを歩きたい。

 自分自身を楽しませるため…自分が楽しいと思うことをやるために結果を気にせずに純粋に頑張る事は、OKなのだ。
それは、健康的に自分を愛することだ。
胸を張って、楽しい、頑張っていると、主張できることだ。
私は自分を誰よりも愛しているので、私が望むことをして、私が楽しむために努力する。
それは、誰かのためにやることじゃない。
誰かの高い評価を得るためじゃない。
何かの結果を、期待する誰かに差し出すためじゃない。

それが、誰かを傷つけることになるはずがない。
そして、同じように愛する人が人生を楽しむためにしている努力を見守ることが出来るのは、素晴らしいことだ。
それを見て漠然と不安になったり、苛立ったり、妨害したりすることのほうが、ずっと病んでいるんだ。

いいんだ、楽しい時は、楽しい顔をしていいんだ。
楽しいって、言っていいんだよ。

楽しいんだから。



7/31(土) 習癖・癖・habit

  Portia Nelsonの詩の中にも、Dave Pelzerの著書の中にもある、癖(習癖)という言葉が気にかかっていた。

 Portia Nelsonの詩には、Vの段落に出てくる。(雑記 7/8)
私は多分、今この段階にいる。
穴は見えているけど、それでも落ちてしまう。
それが習癖(くせ)だと言うことが解っていて、目は開いていて、人のせいじゃなく、自分のしたことなのだと気づくことが出来る。
そしてそこから出る。
私は多分…ここまでは来られたように思う。

この詩の原文をネットで見つけました。

III. I walk down the same street.
   There is a deep hole in the sidewalk.
   I see it is there.
   I still fall in....it's a habit.
   My eyes are open.
   I know where I am.
   It is my fault.
   I get out immediately.


 『明るく考える「クセ」をつけよう』
これはDave Pelzerの言葉。
この本の紹介で自分で書いた文章に、あれっ?と思った。
『何かにマイナスの反応をしてしまう自分に苦しんできた過去があるなら、そのやっかいな「クセ」をこれからは味方につけてしまえという力強さも著者らしい発想だと思います。』

 きっと私は、表の日記を書くことで偶然に『明るく考えるクセ』をつけ始めているかも知れない。
今日一番楽しかったことは、一番おもしろかったことは、一番心に残ったことは…といつも考える。
自然と描きたい絵が浮かんでくる。
描きながら、それを心の中にある『楽しい事の引き出し』に入れる。
私の『楽しい事の引き出し』の中身は、少しずつ増えていく。
嫌だった出来事も、描き方で楽しくもなる。
どうしても楽しくなれない日だって、そんな自分を客観的に描いたら、なんだか少し落ち着く。
こんなクセのつけかたも、一つの方法なのかも知れない。

それと同時進行で、こうやってこの場所で頭の整理をしている。
表現しきれないことをここに書く。

だから今も変わらず、ここは表も裏もひっくるめて、そっくり私自身の分身になっている
ちょっと大げさだけど、ここに、私の欠点と長所、つまづきと成功、弱さと強さ、暗さと明るさ、不安と希望がある。



7/23(金) 良かったですね

 今日のニュースで曽我ひとみさんがお嬢さん二人と新宿御苑をお散歩しているところが映っていましたね。
私と一緒にしては失礼ですが、以前から曽我さんと、自分の事が少し重なってしまい、ずっと報道を気にしていたので、とても嬉しくなりました。
お嬢さんと顔を見合わせて微笑み合う姿には、胸がきゅ〜んとしてしまいました。
一瞬お母さんの愛情に不安を抱いたこともあったのかも知れないけれど、今日のお嬢さん達の笑顔はとても素敵で安らかだったように思えました。
私も、今は娘と微笑み合うことが出来ます。
本当に良かった。




7/18(日) 無題

もはや誰も憎んではいないのに
どこにも悪意は無いのに
あそこにいるだけで 
自分がどんどん小さくなっていくのを感じる
どんどんくだらない存在になって 
消え入りそうになる

堂々と振る舞ってみるけれど 
それを見ている自分は
「おまえ、嫌なヤツだよ」
と冷たい視線を送ってくる
これは ずっとずっ長いことつき合ってきた意地悪な自分だ
もう別れたと思っていた自分だ

まだいたのか 
まだひそんでたのか
まあ いい
それでもいいよ
あんたのことは知ってる
良く知っているよ
だけどもう 支配はされない

 



7/8(金) 5つの短い章からなる自叙伝
                〜Portia Nelson


T .私は通りを歩く。
  深い穴がある。 
  私は落っこちる。
  私はどうしたらいいのか分からない、・・・どうしようもない、
  これは私の間違いじゃない。
  出方が分かるまで、ものすごく時間がかかる。

U. 私は同じ通りを歩く。
  歩道に深い穴がある。
  私はそれを見ないふりをして、またまた落っこちる。
  また同じ場所にいるのが信じられない。
  でも、これは私の間違いじゃない。
  やはり出るのにずいぶん時間がかかる。

V. 私は同じ通りを歩く。
  歩道に深い穴がある。
  それがあるのが見える         
  それでも私は落っこちる、・・・これは習癖(くせ)だ
  私の目は開いている。自分がどこにいるのか分かる。
  これは私のしたことだ。
  すぐそこから出る。

W. 私は同じ通りを歩く。
  歩道に深い穴がある。
  私はそれを避けてとおる。

X. 私は別の通りを歩く。

 以前、表の日記で引用したことのあるこのPortia Nelsonの詩を、再び思い出すような出来事があった。

変わりたい、もっと楽に生きたいと彷徨いながら、気づくといつも同じあの通りを歩いている。
そして同じ穴にまた落ちて、なんで私にばかりこんな不幸が何度も起きるのかと…と嘆きながら這い上がる。
けれどまた彷徨い、また同じ通りに戻り、同じ穴の前に立ち…。

繰り返し同じ穴に落ちる姿は、他人から見れば滑稽なほど明らかな間違いであっても、当事者にとっては必死に頑張っているのにまた落ちてしまう避けられない穴なのだ。
何故、自分はまたここにいるのだろう。この深い穴の中に。

多分それは、昔居た場所だからじゃないだろうか。
一番多くの時を過ごした、かつての居場所だったから。
そこがどんなに苦しい場所であれ、何度も無意識に戻ってしまうのは、その深い穴の中でしかやり直しがきかないような思い込みかもしれない。

目を開いて、そこに暗い穴が開いていることを見るのは、勇気がいる。
けれど、見なければまた落ちる。
落ちてしまうのは、結局自分の意志なのだ。
それに気づくことは、落ちることよりずっと難しくて、怖い。

 真に変わりたいと願ったとき、きっと変化のチャンスが来る。
けれど、変化には痛みが伴い、本当はそれが怖いから、穴に気づかないふりをして落ちるのだろう。
チャンスはまた来る。当事者にとっては「苦痛」という形で。何度でも。
目を見開く決意は、けれど当事者にしかできない。

あの通りから呼ばれても、穴の中から、「おまえのせいで〜」と罵られても、もうそこには行かない。
あそこは慣れた場所だけど、決して幸せな場所じゃない。
明るい所じゃない。
何かが狂っている場所だから。

もっと明るい通りが、他にもたくさんある。
自分自身を棚に上げて、人に変化を強いるのは意味がない。
見守ろう、待とう、祈ろう。
そんな時、そうする事こそが唯一で最高のメッセージだ。

そうして思い出す。
私が穴の中から叫んでいた時に、別の通りから祈っていてくれた人たちのこと。
その人たちの言葉が、まるで外国語のように理解できなかった自分のこと。

きっと今も、もっともっと明るい通りから、私を見て祈ってくれている人がいるのだろう。
もっともっと自由で幸せな場所から。

  

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7/1(木) 「家族狩り」 2

 おっかなびっくり、「家族狩り」を読了。
あの女子高校生は、前へ前へ向かって大きく飛躍した。
彼女をそうさせたのは、彼女の持つ底力…それは彼女が努力の末に手に入れてきた貯金のようなものだったのだけれど、決して自分ひとりの力じゃなかった。
出会いとか、縁とか、触れ合いとか、人と人との関わりを表す言葉はどれも月並みに思える。だけど、人と人とが本気で心を開いて関わる時、そこに生まれ出るエネルギーは奇跡的な大きさになる可能性を秘めている。

 作者である天童荒太さんの"あとがき"から。

*****

世界にはいまも悲劇があふれています。国内にも、小さな家庭のなかにも、つらい出来事が毎日のように起きています。きっとひとりでは無理です。誰かと声をかけ合い、支え合わないと、苦しすぎます。勇気を持って、一歩踏み出し、声をかける……それだけで、意外に大きい変化が生じるように思います。

*****

 これから読まれる方もいらっしゃるかも知れないので、あらすじについて深くは触れないが、『私達はこれから、「家族」をどうしていったらいいんだろう。』そういうメッセージが根底に流れている小説だった。
登場する人々は皆、社会の中で過去を抱えて生きながら、家族における様々な悩みをも抱えている。

問題家庭ばかりをねらって起きる連続一家惨殺事件。
それを軸に、事件を執拗に捜査する刑事、心を病んだその妻、美術教師、教え子の少女、児童相談所の若い職員、父子家庭のアル中の父親、施設で暮らすその幼い娘、息子を虐待して服役した男…それぞれが怒りや憎しみや孤独や諦めをもてあましながら、もがいていた。

彼等の結末は、新しい一歩を踏み出せた者と、破滅をむかえた者とに大きく分けられた。
そしてその決定的な差は、真剣に関わろうと手をさしのべる他者に気づき、その人に心を開くことが出来たかどうか…であったように思う。
小説の中でも、社会は不公平だが、どの登場人物にも、必ず小さなチャンスや、救いとなる出会いがあった。
ただ、それを気づけないほどに屈折してしまった心は、どうすれば救われたのか。
闇の中から出てくるのを拒み続けた彼等は、どうすれば新しい一歩が踏み出せたのか。
決定的な解決方法など、きっと無いんだろう。
やはり、「誰かと声をかけ合い、支え合い、勇気を持って一歩踏み出し……」と、作者のあとがきに書かれた地味で根気のいる方法の中にだけ、出口が見つけられるのではないかと思う。




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