パワーゲーム


 パワーゲームというのは、社会のあらゆる場所で日常的に行われています。
職場で、学校で、政治の世界で、国家間で。
勢力争いをし、権力を誇示して人を威圧し、関係の強弱を知らしめ相手をコントロールし…。

家庭こそがパワーゲームの始まりだという人もいます。
祖父、祖母、父親、母親、兄、姉、妹、弟…そういった立場で生じる力関係は家族の中にもあるでしょう。
けれど、子どもが保護者に無条件に受け入れられていることを確信していれば、そういう力関係とは別のところで、もっと根底のところで安心して家庭で安らぐことが出来ます。
家族皆が平等に人権を守られ、お互いを尊重し合いながら成長するでしょう。
そうして自己肯定感は自然に養われていくのだと思います。

 もしも誰もが心を休める場であるはずの家庭が、このパワーゲームに支配されていたとしたら、家庭は決して心の安まる場にはならず、子どもの自己肯定感は健全に育ちません。

「私は私のままで充分愛される存在なのだ」という自信が欠如したまま成長したとき、彼らはその心の空虚を埋めるためにパワーゲームをせずにはいられなくなります。
「〜であれぱ」「〜が出来たら」という条件付きでしか愛情を示されなかった時、子どもは、自分の価値を証明するために、いつも自分の力を自分に証明し続けていなければならなくなります。
こうして自己の存在を「絶対」としてではなく、誰かと比較して上か下か、勝ちか負けか、という「相対」の中でしか認識出来ない癖がついていくのではないかと思います。
「相対」の中で力関係を確かめていないと、自分が何者でもないような不安に陥るのは、常に勝つことを強いられる状況に慣れてしまったからでしょう。
それは、誰かの見栄のための道具であったからかもしれないし、家庭の中で身の安全が保証されるためには過酷なパワーゲームに勝ち続けていなければならないような状況に於かれていたからかもしれないし、または表面的には平和に見えても、水面下で精神的なコントロール合戦が激しく繰り広げられる環境にいたからかもしれません。
booksで紹介している「ペルザー家虐待の連鎖」の著者が長い間おかれていた状況は、まさにこれだと思います。
生死をかけたパワーゲームを休むことなく続けなければならないという極度の緊張感の中で子ども時代を送ったのがこの本の著者です。
兄弟の中で強い立場にいないと、次は自分が虐待の対象に選ばれてしまう、身の安全が保証される立場にいるには兄弟を陥れてでも勝ち続けるしか無いというパワーゲームです。

  こうして、身に付いてしまった癖を、大人になり、もうゲームが不必要になってからもずっと続けて来たのだとしたら。
そのために費やした膨大なエネルギーは、一体何の役に立ったのでしょう。
自分自身や誰かを不快にすることはあっても、幸福にすることはありません。
パワーゲームは、健全な向上心とは全く別のものです。
向上心は今の自分より、未来の自分をより進歩させていこうと、目標や夢に向かって努力し何らかの達成感や満足感にたどりつくものです。その過程でライバルとの競争が生まれたとしても、それはパワーゲームと全く異質のものです。
けれどパワーゲームには、達成感、満足感は有りません。
有るのは、不安と恐怖です。
失敗すれば挫折が、成功しても、さらなる不安が待っています。
その不安から逃れることは決してありません。

 ここから抜け出すための第一歩は、まずパワーゲームをしている自分に気づくことだと思います。
それを客観的に眺め、気づいたらすぐストップすること…、それを心がけて行くうちに、ゲームをしなくても何も困ったことにはならないのだと身をもって感じることを繰り返し自分に納得させていくことです。
そして、パワーゲームに汚染されていない生活が、気が抜けるほどにらくちんで快適だということ、その快さを少しずつ獲得していきます。
最後には、つまらないゲームをしなくなった自分が、ちょっと好きになっていればいいですね。




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